コラムのコンセプト

現象だけを見ていては、何も解決されません。
調べて、議論をして、分析をして、
知識を深めなければ、本質は見えてこないのです。
このコラムでは、有識者の方々の経験や知見を通して、「情報品質」の本質を探っていきます。

官と民が紡ぎだす「情報品質と社会的責任」 第1回

 

読売新聞 元論説委員

UCDA理事 永井順國

「情報品質」は経営哲学そのもの

 このところ、日本を代表する企業で、車や鋼材など製品の品質をめぐる不正が相次いでいます。これら一連の不祥事を引き起こした業界に共通して見て取れるものは、「人の目に見えないところで、手抜きをする」、「いや、手抜きどころか、検査データそのものを改ざんしてしまっている」
―というものでした。しかも、これらはいずれも、顧客やユーザーが直接品質を確認することが困難か、不可能なものばかりです。

 まさに、企業がごく当然の義務、最低限の義務として負っている社会的責任はどうしたのだ、と言いたくなるような事態です。それどころか、かつての「職人の律義さ」や「プロの倫理」は、現代の企業には継承されていないのか、一体どこに行ってしまったのだ、と、舌打ちしながら指摘したくなるような現象を今、私たちは目の当たりにしています。

 企業に求められる社会的な責任は、何も製品の品質だけではありません。かつては想像もできなかったような情報技術や、それに基づく多様な手段・方法であふれかえる「情報化時代」の現在、生活者の生命や財産にまつわる大切な情報にも、実は、「品質」が問われる時代に突入しています。
 言うまでもなく、「情報の品質」は、基本的に情報の送り手に委ねられています。

 生活者は、その情報によって、何を選択するかを考え、判断し、行動を起こします。必然的に、そうした関係性に置かれています。
 送り手の発信した情報が「正しいこと」、そして「間違った方向に誘導しようとしていないこと」、この二つは、情報の送り手である企業の倫理が問われるものであり、その意味で、経営哲学そのものであると言えます。倫理と哲学を欠いた情報が発信されれば、被害は生活者に直接、丸ごと及んでしまう、ということになってしまいます。

 その意味で、現代は、企業社会にも「情報リテラシー」が厳しく求められる時代に入っている、情報リテラシーを絶えず磨き続けていかないと、企業そのものが生存できない時代に入っている、そう言えるでしょう。つまり、「対顧客言語の研究と実践」が、現代の企業にとって、「必修科目」になっているのです。
 金融庁が、顧客に対する誠実・公正な業務運営を求め、かつ、商品やサービスにまつわる重要な情報を、顧客が理解できるようわかりやすく提供すべきである、と強調しているのも、同じ文脈の中にある。そのように考えていいと思います。

第2回に続く