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企画コンセプト

ローマ神話では、学問発祥の地、アテナの近くに「ミネルヴァの森」というものがあったとされています。ミネルヴァとは、知恵の女神の名前で、つねにフクロウを従えていたことから、フクロウもまた知恵の象徴です。
この企画では、理事長の在間稔允が、長年活躍されてきた各界の賢人の方々(フクロウたち)に、これからのUCDのあり方についてお聴きします 。

ゲスト:戸矢雅道(とや・まさみち)株式会社フォーム印刷研究会 代表

1938年 東京生まれ
1956年 東京都立工芸高校印刷科卒
アジアビジネスフォーム第1期生として、アメリカから印刷技術を導入
1968年 光ビジネスフォーム設立、発起人、開発製造担当役員
1976年 OCR、OMR、プリンタ用紙、フォーム印刷の技術研究を目的にフォーム印刷研究会設立、発起人、副代表
1986年 光ビジネスフォームを常務・上場対策担当で退職
フォーム印刷とラベルの新製品の研究開発型企業としてエニカ株式会社を設立
2003年 王子製紙関連の王子タックと当社技術活用のための業務提携
2016年 株式会社帳票デザイン研究所を設立

平判からゼログラフィへ

ーー戸矢さんは41年前に日本ではじめてビジネスフォームの勉強会を開催しています。
1年間の勉強会の後、フォーム印刷研究会を立ち上げ、今でも80社以上の会員会社に対して、毎月会報を送り、毎月勉強会を続けています。ビジネスフォームの先駆者にお話を聞きたいと思います。

戸矢雅道氏_1当時は、OCRの黎明期でした。統計局が国勢調査で使い、ジャノメミシンなども使いはじめました。これからの印刷業界に絶対必要だと思いましたが、業界にはOCRの知識も技術もなかったので、勉強会をはじめました。講師は、東芝、日本電気、富士通、REI、大日本インキ、千葉大、富士フィルム、郵政省、兼松江商、流通開発センター、キヤノン、CSC、日本電気、富士通などからきてもらいました。
1年後に、勉強会をフォーム印刷研究会として法人にしましたが、それには理由があります。OCRは機械読み取りで、データが機械メーカーから印刷会社にこないと用紙が作れないんです。当時の機械メーカーは、IBMやREIが大きくて、国産だと富士通や東芝、日本電気。みんな大手印刷会社には協力するけど、我々中小は相手にしてくれない。それでは仕事ができないから、データを出してもらうために作ったのが、中小が集まったフォーム印刷研究会という法人組織です。会社の名前が入った便箋に、「講師派遣と情報提供のお願い」と書いて持っていくと、機械メーカーがデータを出してくれるようになりました。

ーー新しい技術を勉強することと、小さい会社が大手に負けないことを目指してフォーム印刷研究会を立ち上げたんですね。

不思議な話なんですけど、OCRについては、いまだに教科書というような技術資料は、我々が作ったこの1冊しかないんです。いまでも、印刷会社の社長室に大事に置いてあるのをよく見ます。

【左】フォーム印刷研究会が1976年に発行した『OCR・OMRハンドブック』 【右】アジアビジネスフォームが1960年に発行したビジネスフォームに関する書籍『Continuous Forms』

ーーこれ一冊しかないんですか。いままでないものを作るのは大変だったでしょうね。

ほぼ半年。みんなで力を合わせて夢中になって作りました。面白かったです。

ーー戸矢さんのキャリアはアジアビジネスフォームから始まったそうですが、当時のビジネスフォーム業界はどんな様子だったんですか。

アジアビジネスフォームは大和證券が作った会社でした。当時、証券取引所にはじめてコンピューターが入ったのですが、印刷機はないし紙もない、何もない状況です。それで、証券業協会の会長をしていた大和證券が「だったら自分のところで会社を作ろう」となって、始まったのです。アメリカには当時、ムーアとスタンダードレジスターと2つの印刷会社があって、ムーアにコンタクトしました。まず日本では、セパレーター(複写で2枚とか3枚になってる連続用紙を1枚ずつバラバラにする機械)やデタッチャー(連続用紙をミシン目でカットする機械)を売ることからはじめました。日本のコンピュータ-時代の始まりです。東京ガス、大阪ガス、大阪市役所などです。証券取引所がコンピューターを入れたのはその後です。
当時のビジネスフォームの印刷機械、ゲーベルのバリフオーマーが凸版印刷の本所に入ったのはそれから数年後です。ドイツのオートマチックは細川活版にあった。ポツリポツリとそういう機械が日本に入りはじめた頃ですね。当時は、印刷の注文をもらうと、アメリカに用紙を発注していました。

ーー日本には帳票の用紙がなかったんですか。

当時の日本にはありませんでした。アメリカに発注して、3ヶ月くらいがかかりました。

ーーだから帳票には、インチのサイズがずっと残ってるんですね。

帳票の両側に穴があいてますよね。あれもインチの規格なんです。JIS規格では、横幅が14-7/8インチの用紙が15インチになってますけど、いま横がY15って書くんですよ。つまり、横幅が15っていうのがY15で、縦がT11。それで、穴は昔のままインチで。いま4ミリ穴になってますけど。これだけはいまだに世界中がアメリカの規格。
1955年〜1956年頃、吉澤会計機という会社がレミントンの会計機をもってきた。IBMのパンチカードは穴が四角なんですが、レミントンは丸。だからパンチカードには、丸い穴と四角い穴の2つの流れがありました。
コンピューターが企業で使われるようになって、1年遅れで製造機械が入りはじめました。コンピューターはアメリカから入ってきたのですが、製造機械はアメリカだけじゃなくヨーロッパにもありました。どれも、大量生産機じゃなく、少ロットのものを時間をかけて作る機械です。当時の日本は、全部輸入機に頼っていましたが、日本にインチなんて考えはどこにもない。尺貫法の時代ですから。あっちもこっちも大混乱なわけです。で、紙くらいは日本で作ろうと、紙メーカーと試行錯誤をしました。作ってテストすると途中で切れたり、穴があいていたりトラブル続きで大変でした。当時は山陽国策パルプ(日本製紙)が1番熱心でした。王子はそれから20年くらい後ですね。
証券会社が景気のいい時代でしたから、大和證券から、金はいくらかかってもいいから、フォーム印刷の仕組みを作れと言われて、千葉大卒の先輩と2人ではじめました。アメリカからどんどん資料がくるんですが、その中に、ゼログラフィって言葉があったんです。静電気を使ってドラムに転写する方式が特許をとったもので、「将来の印刷はこうなるから、勉強しておけ」と言われました。いまのレーザープリンターの原理です。

ーーレーザープリンターの誕生にはそんな秘話があるんですね。

当時、我々が見る印刷機は、平判の印刷機でした。ゼログラフィとなると、なにもかも新しいものでなきゃいけない。まず勉強だということで、町の製版屋に行って半年、その次に写植というものが動き出したから写植の勉強に行ってまた半年。製版の勉強、写植の勉強をしていると、1年後に、アメリカからムーアの設備が日本に着きました。ところが当時の印刷設備はフレキソ(ゴム版)だったんです。平版のシートの場合は問題ないのですが、丸めると当然寸法が変わります。さらに、向こうからきた設備を見たら、フレキソの元版が活字なんです。つまり活字を組んで、そこに母型というマトリックスを乗せて、ゴム板を乗せて、熱をかけて版を作らなくてはいけなかった。こんな大変なことをやっていられないので、私たちは写植で直接版下を書く方法をはじめました。当時、版下は全部手書きだったんです。仕方なくて、亜鉛凸版をそのまま版に巻きつける方法を考え、円筒にしたときのズレを計算して寸法を補正しながら手探りで作りました。それしか方法がなかったんですね。

チャンスをつかむには、どうやって仕事に付加価値を見出すか

ーー機械にあわせて人間が手作りでやっていたんですね。すごい技術です。

戸谷雅道氏_3当時の印刷会社は、それぞれ自分のところで工夫していました。印刷は職人の世界です。汚いし、労働条件も悪いし、いろいろなことが遅れてる。ところが、我々のオーナーは証券会社でしょう。「コンピューターを扱って、ビジネスフォームという世界で最新のことをやるならば、会社も最新のものにしなければいけない。金はいくらでも出すから」と。我々もおもしろくて、1週間会社に泊まりっぱなしで、土曜日に家に帰って、また月曜日から泊まりっぱなしみたいに一生懸命でしたが、会社も一気に燃えるような状態でした。ところが7年くらい経って、やっと採算が合いはじめたころに証券不況がきた。そのときに大和證券が、我々の会社を凸版印刷に売ったんです。我々の工場がスタートしたのは1957年、凸版印刷がビジネスフォームの仕事をはじめたのは59年です。数年遅かったんです。だから大和證券から「これから商売になるからどうだ」と言われて、凸版印刷が買ったんでしょうね。

ーー大和證券の持ち株を凸版印刷が買ったんですね。

そうです。凸版印刷から来た人が最初に言ったことが、「お前ら素人に何ができるんだ。我々は印刷の玄人だ」と。たしかに私たちは素人なんですよ。大和證券は、職人は入れるな、製版の職人を引っ張っちゃだめだ、やるなら自分で勉強して自分たちでやれ、と。そんなやり方でしたから、みんな夢中になって働きました。しかし、凸版印刷になって、いろいろな問題が出てきました。前は証券会社がオーナーだったので、土曜日は休み。かたや印刷会社は、祭日も休みがない、残業は当たり前だし、労働条件が全然違う。それでも、我々は強制されてやっていたわけじゃないし、新しいものに取り組もうと思って一生懸命やってきたのに、「お前らは素人で、俺たちの言うことをきけ」と言われて面白くなかった。それで、上司や仲間5~6人を募って、飛び出して会社を作ったんです。
いまのこの会社を作ってちょうど30年です。その前も入れるともう50数年になります。やっぱり印刷って仕事は、プロとか素人とか抜きに、自分たちが勉強するという気持ちがないとだめですね。

ーーコンピューターと印刷が繋がりはじめた時代から現在まで、50数年ですか。

当時の会計機をご存知ですか。A3くらいの用紙を1枚づつ機械に入れて、データを印字するんです。その用紙の裏に磁気テープが貼ってあって、その中に今の残高とか口座名が入ってる。それを会計機にセットすると、データを読み取って残高が印字される、その磁気テープに今度は今日の分を追加する。つまり、データの連続性はこの用紙で行われていたんです。今の銀行の通帳に磁気テープがありますが、それと同じです。会計機の時代は、口座が200あったら、用紙も200枚あって、それを持ってきて今日のデータを入れると残高は常に更新される。これが、コンピューターの初期です。吉沢会計機が、この機械を販売してましたけど、IBMなどアメリカのものでした。

ーー戸矢さんは会社を飛び出して、どんなフォーム印刷の会社を作ったんですか?

仲間が5人いたんですけど、飯を食うために2年くらいブローカーをやりました。その後、工場を作ったんです。私はもともと製造部門の責任者でしたから、工場は私が全部引き受けて、日野に作りました。「どうせ会社を作るなら、上場しようよ」と大それた考えではじめたんです。仕事はいくらでもありました。当時は、印刷機械も、わりと安くて、国産機だと300~400万円くらいで買えました。
コンピューター化がどんどん進みだした頃ですから、営業担当が毎朝新聞で「コンピューターの要員募集」という求人広告を探して、「ここにコンピューターが入るらしいから、行け!」といって、どんどん仕事が増えていった。1991年頃は紙の需要が年間で30%伸びました。印刷業界の1番ピークですね。オフコン時代が始まった頃です。大会社だけが使ってたものを中堅が使いはじめた頃ですね。それでマーケットが大きく変わっていった。

ーーその頃になると、用紙も国産になったんですか?

そうです。ただ、この技術は欧米のもので、日本が独自に作ったものは残念ながらほとんどなかったですね。我々も、外国へ勉強をしに行って、知識や情報を仕入れてきていました。この10年ぐらいです、日本の技術が世界レベルになったのは。ミヤコシあたりが、いまや世界中のシェアを握っていますが、その頃はアメリカやヨーロッパから、たくさんの機械や技術が入ってきました。

ーー創生期だと、大きい会社も小さい会社も同じように伸びていた時代ですね。

93年のビジネスフォーム業界各社の売上高は、トッパンムーアが約1,468億、小林記録紙(現小林クリエイト株式会社)が約698億、イセトーが約182億、今とあまり変わりません。その後伸びた数字が縮まっちゃってるんでしょうね。

ーー需要が少なくなると小さい会社が厳しくなってきますね。

いま、当時の会社のうち3割くらいは消えているでしょうね。自由競争の社会だから仕方ないですが、格差はどんどんひらいています。印刷だけでよかった時代から、ここ10年で印刷以外にマーケットがひろがってきました。

ーーBPO(ビジネス・プロセス・アウトソーシング)というマーケットですね。

そうです。1947年から1954年当時のアメリカのデータを見ても、ビジネスフォームというのは定期刊行物の次に成長率が高いビジネスになっています。アメリカでも初期からビジネスフォームの仕事は将来性があって、マーケットが伸びるという想定だった。しかし、日本ではビジネスフォームは最初からマーケットが伸びないという考え方でした。今になって、BPOが成長して、印刷周辺のビジネスが伸びてきてますが。ビジネスフォームは、コンピューターに絡んでいます。印刷して、印字して、折って、封入・封緘して届けるところまで、ビジネスフォームの印刷会社の仕事になってきました。ソリューションとしての仕事が発生してきたということです。商業印刷というのは刷って終わりです。その違いが明らかにあります。日本の印刷会社は、そこに気がつかなかったんです。

ーーフォーム印刷の会社は、印刷からBPOまで領域が広いですね。

日本は、「印刷して終わり」ですからね。最初のころアメリカに行ったときに「ビジネスフォームはこういうものだよ」と見せてもらったんです。アメリカのビジネスフォームの工場で何を作っていたかというと、レコードジャケットだったんです。小さいものはパンチカードやネームカードからはじまって、大きいものになるとレコードジャケットなんです。用紙を折りたたんで、糊をつけて「これも大事な仕事だ」って。彼らの発想は、紙があって、穴をあけて、糊をつけて、加工できるものなら、なんでもいい、ということなんです。

ーービジネスフォームもレコードのジャケットも同じだと。

「使う紙が違うだけだ」と、こういう発想ですね。ものすごく勉強になりました。ビジネスフォームは、コンピューターの用紙だと言ってしまうから、狭く狭くなるわけで、本来ビジネスフォームのビジネス領域は広いんです。たとえば、いまミヤコシの機械があれだけ伸びているのは、なんでも印刷できるし、長巻きでできて、しかも加工できるというメリットがあるからです。もっと多目的に使えることがやっとわかってきた。印刷はどこでも同じだとすると、それに付随する加工の部分をどうするかなんです。印刷して、折って、箱に入れたら終わり、じゃなくて、そこからはじまるんです。「印刷して終わり」では、マーケットが伸びないのは当たり前だし、付加価値が上がらないのも当たり前です。ビジネスフォームの印刷会社に、「自分たちの作った帳票が役所や銀行でどのように使われているか調べたことってある?」と聞くとみんなキョトンとしてる。どのように使われているかには全く関心がない。これでは、だめですね。この仕事がおもしろいのは、ひろがりをいくらでも自分たちで作り出せるからなんです。競争は激しいけれど、生き残る余地もまだまだあります。

安全な道を行くよりも、チャレンジし続けることが大事


ーー78歳になっても、戸矢さんのパワーはすごいですね。

安全第一の道へ行っちゃいけない。会社が大きくなるとチャレンジ精神がなくなります。まだ1つ何かやろうという気持ちが大事です。
私が30代後半の頃、シールをつけたビジネスフォームを商品化しようと考えたんです。会社を作って最初にはじめたのが特許をとること。考えて開発したら特許をとる。いまのうちの会社の1番メインの商品は何かというと、国民健康保険の保険証なんです。

ーー国民健康保険の保険証ですか?

いま日本中のものをうちが作ってる。といっても、日本には1,700くらい市町村があって、すべて自分たちで対応することはとてもできない。でも、材料は全部押さえているから、材料を全国に売っているんです。北海道から沖縄まで全国で使われています。

健康保険証に使用されるサクリ紙付両面ラミカード

健康保険証に使用されるラミカード

結局、小さい会社はどこで勝負するかといったら、アイデアで勝負するしかない。お金も力もないですから。
2000年ごろに保険証をICカードにすると発表がありました。ICカードになると、我々は手を出せない。大企業には太刀打ちできない。それで何かいい手はないか考えて、ICカードの代わりになるものを作ろうと考えたんです。皆さんがよくご存知の紙があって、「ラミカード」というピっと剥がすやつ。それを作ったんです。そのときにフォーム印刷研究会が役に立った。この全国組織を使って、日本中にサンプルをばらまいて。会員会社に持ち歩いてもらった。これなら安いし、これなら地元のフォーム印刷会社が商売できる。日本中で動いて、全部ひっくり返ってしまった。
国民健康保険証は、市町村が発注するので、地元の小さな印刷会社でも仕事がやりやすい。「このままいくと、みんな大手にやられるから、地元がんばれよ」って。この研究会は、勉強だけではなくてそういう面でも活きています。

ーー戸矢さんがフォーム研究会でおっしゃっているのは、勉強して「大手に負けるな!」ということですね。

でも、実際は無理ですね。みんな、価格競争でやられちゃってる。この健康保険証がいいのは、1年か2年ごとに更新されるからなんです。皆さんお持ちの社会保険協会とか、大会社の保険協会はプラスチックでしょ。あれは一度入った人はやめないからです。そうすると、10年、20年使うから、プラスチックカードのようなものに高いお金払ってもいいんです。ところが、国民健康保険は、住所を基本にしているので、住所が変わったら保険証を作り変えなくてはいけない。東京都では、年間10%くらいの人は住所が変わります。また、引っ越さなくても、1年または2年という期限があるので作り変えないといけないんです。期限がきたり引越しをすると、新しい保険証を発行してくれるでしょう。

在間理事長ーー私、昨日その手続きに行ってきましたが、そのとおりでした。そういう仕組みなんですね。
ところで、戸矢さんのところは、どのくらい特許を持ってるんですか?

いくつあるのか…。60いくつまではわかってるんですが。


ーーそれで、フォーム印刷研究会に参加している小さい会社ががんばれるように応援しているのですか?

フォーム印刷研究会は、自分のところで新しい商品を作ったら、ここに出して、「みんなで協力してお互いに売ろう」という面もあるんです。1番成功した事例は、もう5年経つんですけど、「米」です。

ーー米を売ったんですか?

秋田の印刷会社で本業はフォーム印刷なんですが、農協の米を全国で売りたいから「米をセミナーでPRして出していいか」と言ってきました。やってみたら、結構評判が良くて、年々買う人が増えてきました。

ーーそれで秋田の印刷会社は、農協からコンスタントに仕事がくるようになるわけですね。

そうです。米がうまくいっているから、お酒だとか他にも、いろいろと広がった。そして、米を入れるパッケージも作ってくれと言われた。「仕事がひろがりました」と喜んでいました。

ーーフォーム印刷研究会のネットワークは、1つのインフラですね。コンビニほどすごくはなくても、全国に広がっている。

情報網にもなります。地域振興券の時も一気に情報が集まりました。だから保険証もそうだったように、大手がサンプルを持って回るよりも、地元の会社にバーっと配っておけば、今日渡して、明日には回っちゃう。

ーー小さい会社が集まるのは、そういう意味でパワーがありますね。

組合の場合は境界があるから、県単位とか境界線で止まっちゃうんですよ。研究会にはそれがないし、毎月勉強会を開いているから、ホットな情報がどんどん入ってきます。UCDについてもホットな情報のひとつでした。もともと、版下のデザインに関する権威のなさが気に入らなかった。よそのをコピーして使うのが当たり前という習慣が気に入らなくて。だから、帳票に関して、著作権や版権を主張できる方法がないか、と考えていたんです。UCDを取り入れると、1つの権威付けができるし、特徴が出せるでしょう。これをうまく使うことは、地方の会社、小さな会社にとって非常にプラスになると思いました。だから、会員へのサービスとして、UCDを積極的に進めていこう、と考えたのが発端です。UCDをどう活用するかは、それぞれの会社の問題ですけど。少なくとも、囲い込む材料になると思います。

ーーどんなにいいものを作っても、すぐに真似されちゃうのではもったいないですね。

お金をかけて、いいものを作ったら、技術や時間に見合う値打ちがないといけないですから。一生懸命頑張っても、真似されてしまうと人も育たなくなっちゃうんです。

ーー最近、問合せがあった印刷会社に「UCDを勉強してください」と言うと、それっきりになってしまうことが多々あります。

電話1本で答えが得られると思っているんですよね。皆さん、勉強嫌いなものですから、絆創膏のように「ピっと貼って効くものないの?」と言われてしまう。

さらなる飛躍を目指して ―帳票デザイン研究所を設立―

戸矢雅道氏_3ーー帳票にデザインが必要な時代は少しずつひろがっていると思いますが、最近、いろいろなところで、「UCDのデザインができる人は、どこにいますか」と聞かれます。戸矢さんは、今年に入って帳票デザイン研究所を設立されましたが、どういった経緯なのでしょうか。

印刷業界は、コピーして当たり前と思ってる業界です。独自性をなかなか主張できないという弱い部分があります。これからは、デザインが勝負になってくると思います。重要な情報を「わかりやすく」伝えることは、世の中の流れですが、それを実現できる人間が非常に少ない。特に小さい会社では難しい。だから、フォーム印刷研究会の会員会社をサポートする意味で、帳票デザイン研究所を立ち上げました。これも大手に対抗するための中小の知恵です。「わかりやすい」デザインを、フォーム印刷研究所の会員会社を通じて、全国に広げたい。これからは、そこが地方でも競争になると思っています。

ーー自治体もいま地元が活性化しないと税収が入ってこないので、一生懸命ですね。そこに印刷会社がもっと力を入れるといいんですけど。市役所の方も「本当は地元の印刷会社に仕事を出したいんだが、地元の印刷会社が提案を持ってこない」と。大手が次々と提案を持ってくると、そちらに発注せざるを得ないと言っています。

わかりますよ。「仕事を取ってこい」だけじゃ回らなくなっている世の中ですから。みんな簡単に考えてるんですよ、今日も工場で機械が回っているから安心しちゃうんです。最近は、UCDを推進する発注主が増えているので、気付きはじめている中小が出てきました。

ーーフォーム印刷研究会も帳票デザイン研究所も戸矢さんのユニークな発想から生まれていますね。

私は好きなことが言える野次馬でいたいんです。でも、月1回の勉強会に皆さん地方から来てくれるわけです。何か皆さんのプラスになることをやっていかなきゃいけない。これから、帳票デザイン研究所で「わかりやすい」デザインを実践して、会員の皆さんの役に立ちたいですね。

ーー最後に、戸矢さんにとってUCDとはなんでしょうか。

印刷業界は、人の版権や著作権を尊重しない風潮がありますが、UCDによって帳票が価値化されるいい機会だと思います。帳票が電子化されたときにもビジネスがひろがるビジネスフォーム印刷会社、小さくてもユニークで儲かるビジネスフォーム印刷会社が生まれてくるチャンスだと思います。印刷にこだわらず、BPOや新しい仕組みで、お客様のコミュニケーションをサポートする会社として、もう一度成長してほしいですね。UCDに、自分たちの拠りどころを見つけられればすばらしいと思います。独自性や付加価値をどうやって出していくかです。

ーーUCDAも応援します。

大いに期待しています。

ーー本日はどうもありがとうございました。

(2016.06.22 収録)

理事長:在間稔允(ざいま・としちか)プロフィール

1946年 東京生まれ
1971年 東京大学卒業
味の素株式会社に入社
1999 年 味の素厚生年金基金監事 兼務
2006年 味の素株式会社を退職
2010年 一般社団法人 ユニバーサルコミュニケーションデザイン協会 監事
2011年 同    理事 就任
2015年 同    理事長 就任