ゲスト:西島三重子(左) 「おひさまのたね」作曲/シンガーソングライター

プロフィール  1975年にシンガーソングライターとしてデビュー以来、大ヒット曲「池上線」をはじめ数々の名曲を世に送り出す。現在までに24枚のオリジナルアルバム(ベスト・ライブ盤を除く)を発表。自身の楽曲の他にも木の実ナナ「うぬぼれワルツ」をはじめ、五木ひろし、研ナオコ、石川ひとみ、小柳ルミ子、沢田聖子、高見知佳、水森かおりなど、多くのアーティストに楽曲を提供。2002年に発表した「おひさまのたね」が、日本中の幼稚園や小学校で歌われるようになり、曲の譜面を提供する「おひさまのたね蒔き運動」を展開している。また音楽活動の他には、創作童話「サンタさんのゆめ」「おやおやまあくん」(サンリオ刊)、コピーライトに、黒井健氏の画集「ハートランド」「ハートランドⅡ」「詩とメルヘン増刊号」「東君平の世界」「葉翔明の世界」(サンリオ刊)他、エッセイ集に「「薬師団欒物語」「わすれもの」(愛育社刊)、イラストの執筆など、多彩な才能を披露する。

―西島さんが歌手になろうと思ったきっかけについてお聞かせください。

西島:デビューのきっかけになったのは、大学時代のバンド仲間の紹介で、プロを目指して活動をしていた方たちにレコード会社や放送局に楽曲を売り込むためのデモテープづくりのボーカルを頼まれたことからでした。当時は人前で歌うのは恥ずかしくて「歌だけなら…」と引き受けました。そのうち見よう見まねで作曲をするようになりました。自分のためというより、いろんな歌手の方達をイメージして作曲していました。7曲目くらいにできたのが「のんだくれ」という曲でした。ある時、楽器を買うために賞金狙いで仲間が応募した渋谷西武チャオパルコのイベントのオーディションに出ることになり、バンドで参加して歌ったら優勝してしまって、そこに来ていたレコード会社の方に声を掛けられました。

私は他の人に歌っていただくつもりでディレクターさんに言われるままに作曲を続けていましたが、ディレクターさんは最初から私をデビューさせるつもりだったようです。ある日ディレクターさんに「レコーディングが決まったから」と言われ「誰が歌うんですか?」と訊くと「君だよ」と。1975年、25歳の時でした。レコード会社の話が進んでいくうちに、プロダクションも紹介されました。まだアルバムを1枚出せるくらいしか曲を作っていなかったし、自分をイメージして書いた曲がほとんどないのに、突然デビューと言われて、続ける自信なんてとてもありませんでしたし、自分がこの先どのくらい曲を書けるかなんて想像もできませんでした。絵を描くことが好きで、大学では油絵の勉強をしていて、自分にも合っていると思っていたのに、音楽の道に進むことになって、本当にどうしたらいいのかわからない状況からのスタートでした。

―自信が出始めたのはいつ頃でしょうか。

西島:未だに自信はないです。何度も音楽を辞めようと思いました。でも、そのたびに戻ってきているので、きっと自分の居場所はここなのだと思っています。最初にアルバム「風車(かざぐるま)」、その中からシングル「のんだくれ」をリリースしました。当時アルバムでのデビューは珍しかったようです。

―「池上線」で西島さんを知った方が多いと思います。

西島:「池上線」も最初のアルバムに入っていた曲です。「のんだくれ」と「池上線」のどちらかをシングルで出すことになったのですが、「池上線」は私鉄なので「NHK」などでは放送しにくいだろうということで「のんだくれ」になりました。「のんだくれ」の中にも不適切な言葉があり、その部分を変更しました。公に発表するというのは意外と不自由なものなんだなぁと感じました。その後「池上線」は2枚目のシングルとしてリリースしました。

―絵を描くのと、曲を書くのとでは何か共通することはありますか。

西島:自分を表現するという意味では、絵も歌も同じだと思います。ひとつのテーマがあって、それをどの形で表現するのが一番やりやすいかだと思います。シンガーソングライターというと、詞も曲も両方書くと思われがちですが、私はもともと作曲だけをしていたので、実はあまり詞は書かないんです。その分、詞にはとてもこだわっていて、納得がいくまで作詞家の方とはお話しさせていただいています。作詞家の方にはいつもご迷惑をおかけしていますが、「おひさまのたね」を書いてくださったみろくさんは、とてもタフで、喧嘩しながらもとことん付き合ってくださるので感謝しています。

―歌詞とメロディーはどちらが先にできるのでしょうか。

西島:詞が先になる場合もありますし、曲が先のこともあります。曲が先の場合、自分の頭に浮かんだフレーズからメロディーのイメージを広げていきます。詞が先の場合は心に引っかかった言葉がメロディーを連れてきてくれます。例えば「おひさまのたね」では「おひさまになれ」でした。この言葉がとても好きです。キーワードになる言葉がふっと入ってくると、そこからメロディーが生まれてきます。本当にいい詞というのはメロディーを持って生まれてくるのだと思います。そういう詞に出会えると、作曲もすぐにできてしまいます。「おひさまのたね」もそうでした。

―「おひさまのたね」は2002年のリリースでしたね。はじめて「おひさまのたね」の詞を見たとき、どのように感じましたか。

西島:2001年ごろ「夢のあとさき」というアルバムを制作していて、その最後の曲が「おひさまのたね」でした。ずっとラブソングばかり歌っていたのですが、親と子の架け橋になるような曲があるといいと思い、この曲を作りました。当時は、虐待やいじめの報道が多く、それぞれが相手を思いやる気持ちを大切にしなくてはいけないと感じていました。

はじめてこの詞を見たとき、母方の祖父のことを思い出しました。学生の頃、入院していた祖父のお見舞いに行ったとき、何を話したらいいのかわからなくて、体をさすってあげました。そうしたら祖父が「トイレに行きたい」と言ったので、手伝って。初めて孫らしいことができた気がして、とても嬉しかったのを覚えています。それから祖父の手をさすりながら、ふとてのひらを見たら、私の手相と同じでした。そのことを祖父に言うと、祖父が二人のてのひらをじっと見つめていました。それまでちょっと苦手だった祖父との血の繋がりを感じて、帰りの電車の中では涙が止まりませんでした。母が死の床についた時、母の手をさすりながらその時のことを話したら、母も感慨深そうに自分のてのひらと私のてのひらを比べて見ていました。「てのひら」が、私にとってはおひさまのたねなのだと思います。「おひさまのたね」を歌うときは必ず、聴いてくださる皆さんに「ご自分のてのひらを開いて見てください。」と話しかけます。子どもたちにも「お父さんやお母さんのてのひらと比べてごらん」と。それがこの歌を伝えるには一番わかりやすいと思っています。

―西島さんが「おひさまのたね蒔き運動」でこつこつとこの歌を広げる活動されて、今では幅広い世代の方に親しまれる歌になりました。「おひさまのたね蒔き運動」についてお聞かせください。

西島:ある時、事務所に幼稚園の先生から「卒園式で子どもたちを送り出すために歌いたいので、『おひさまのたね』の譜面が欲しい」という電話がありました。レコーディングの譜面しかなかったのですが、それを送ったらその年の春に、子どもたちが囃し立てる中で泣きながら先生たちが歌っているテープが送られてきてきました。とても感動して、この歌は私が歌うのではなく、たくさんの方に歌ってもらいたいと思うようになりました。そのための活動ができないかと事務所に相談したら、「草の根運動になるけど、それでもよければやってみよう」と言われ、譜面を無料で配布する活動をはじめました。それが「おひさまのたね蒔き運動」です。そのうち、活動に共感してくださった静岡SBSラジオの方が「おひさまのたね」を1年間SBSのキャンペーンソングにしてくださって、色々なところで歌いました。その後、幼稚園や保育園など、たくさんの方から譜面の依頼が来るようになりました。また、ガールスカウトの方が手話をつけてくださり、その手話の解説書も一緒に配布しています。ファンの方が訳してくださった様々な外国語版の歌詞もあるんですよ。この活動を通じて素晴らしいご縁や嬉しいお手紙をたくさんいただいています。

―この歌を通じて、誰かを思いやる気持ちや、人とのつながりに気付く人が増えているのですね。そういう点では、「おひさまのたね蒔き運動」は、ユニバーサルコミュニケーションデザイン(UCD)を広める活動と似ていると思います。

西島:歌は、情報のかたまりだと思います。たった3分ほどの歌の中に、たくさんの情報が入っています。送り手からの一方通行では、大切なことは伝わりません。相手を思いやる気持ちがなければ、言葉の羅列でしかありません。

もともと日本人には、言霊のように、言葉を大切にする心があると思います。例えば、童謡唱歌の中には、日本語の美しい言葉や歳時記、日本人の心といった大切なものがたくさん詰まっています。そういうものをちゃんと残したいと思って、「おひさまのたね」を歌うようになってから学校や様々な施設で開催している「おひさまコンサート」では、童謡唱歌とそれにまつわるお話も織り交ぜて歌っています。日本の言葉には細かい表現がたくさんありますね。「おひさま」も英語だと「sun」の3文字で終わってしまうけれど、日本語には「太陽」とか「お天道さま」など何種類も言葉があって、そこからイメージも広がります。

―「おひさま」という言い方も「さま」が付いていることからして、昔から太陽に敬意を持っていたのだということがうかがえますね。

西島:それに、日本語にはひらがなで書いた方がきれいに見える言葉と、漢字の方がいい言葉がありますね。特に歌詞はそうだと思います。いつも歌を教えていて思うのですが、日本語の歌は耳から入ってくる時、全部ひらがななんですね。ですから、ちゃんと歌ってあげないと言葉として伝わりません。いかに伝えるかが、日本の歌の大事なところなのかもしれません。「おひさま」もすべてひらがなで書くのと、「お日さま」と、1文字だけ漢字にするのとではイメージが全然違いますよね。更に「御日様」にするとまたイメージが変わります。

―ひらがなで書くと温かく感じますね。少し逸れますが、保険会社では「お客様」ではなく「お客さま」と表記するのだそうです。「さま」の方が相手を敬う意味合いがあるのだそうです。UCDAの理念は「心のユニバーサルデザイン=相手を思いやる気持ち」という考えが原点になっています。西島さんの音楽作りのベースにも通じるところがあると思います。「おひさまのたね蒔き運動」も、一方通行のコミュニケーションではなくて、いろいろな人に歌われて広がっているように感じます。

西島:歌というのは、歌い手の口から出た瞬間から、聴き手のものになるのだと思っています。以前、ファンの方から「池上線」のモデルの駅はどこかと聞かれることが多くありました。実は、私自身も知らなくて、勝手に自分の育った新井薬師や、学生時代を過ごした目白や高田馬場をイメージしながら歌っていました。でも、聴いている皆さんは、それぞれ自分にとっての池上線の駅を持っているのだと気付かされました。私の歌がその人の人生の中で生きているのだと感じました。
それ以来「あなたの思い浮かべる駅を『池上線』の駅だと思ってください」と言うようになりました。ですので、私が歌う時には、私の思いを押し付けるのではなく、聴く方が感じ取れる余白を残すように心がけています。よく「文章の余白を読む」と言いますが、歌も同じだと思います。そうでないと、ただ通り過ぎるだけの歌になってしまって、心に残らないと思います。聴いてくださる方の心に寄り添い、受け止めてもらえるような歌を歌いたいと思っています。

―歌う側ではなく、聞く側が主役だと言う考えですね。これは、UCDAの生活者第一の考え方と同じですね。情報を送る側が押し付けるのではなく、受け取る側の気持ちを思いやることが大切だと思っています。

西島:大切な情報ほど、飾らない言葉で表現することが大切ですね。私も歌を通じて、私の想いが皆さんに伝わるかどうかを大切にしています。目の前にいる方、周りにいる方、離れたところでこの歌を歌ってくださる方、それぞれの気持ちに想いを馳せて歌っています。相手のことが見えてくると、思いやる気持ちが生まれます。言葉は気持ちを伝える手段で、とても大切にしています。

―言葉は、本当に大切です。UCDAでは昨年「フクシマケン食の復興支援」みんなのプロジェクトをはじめました。福島県産の食材、食品が放射線物質の検査をして、安全・安心が認められているという事実を「わかりやすく」伝えることを目的としています。事実をそのまま、正直な言葉で伝えるということです。

西島:「おひさまのたね蒔き運動」もそうですが、このような活動は、派手なことではありませんが、とても大切なことだと思います。正直に事実を伝えれば、共感する人が増えてきます。共感する人が少しずつ増えていけば、間違いなく世の中は良くなってくると思います。「おひさまのたね」は、てのひらからてのひらへ伝わって広がっていきます。「おひさまのたね」の譜面もデータにしてダウンロードできるようにすればもっと簡単に広まるのかもしれませんが、どういう方が受け取るのか知りたいので、今でも自分たちで発送するようにしています。

―UCDAについて期待することがありましたら、お願いします。

西島:最近、UCDAのことを知りましたが、とても共感するところがあります。相手の立場に立って考えるということです。ビジネスであってもプライベートであっても、人と人の関わりの上にコミュニケーションは成り立っています。自分の都合ではなく、相手を思いやるということ、それがUCDAの「おひさまのたね」ではないでしょうか。これからも生活者視点で、大切な情報を「わかりやすく」する取り組みを広げていってほしいと思います。「おひさまのたね」を、私も一緒に広げていけたらいいなと思います。

―本日はありがとうございました。

※「おひさまのたね」譜面のお取り寄せはこちらから  西島三重子公式ウェブサイト

 

―編集後記―
言葉を大切にしている西島さんは、相手を思いやる気持ちをいつも忘れない「おひさま」のような方でした。UCDAも「わかりやすさ」を客観的に評価する唯一の第三者機関として、「おひさま」のような存在でありたいと思います。